Arakan Art 2015
古材を使って建てた家は、最高の贅沢かもしれない。
先人たちが生活を共にしてきた家の柱を使って現代に蘇らす。長い間使われてきた古材は、よく乾燥しているし奥深い味わいがある。古材は、我々に暖かみと癒しをもたらしてくれる。古材を利用して、机や椅子、棚などに生まれ変われることもできる。
世界でたったひとつの自分の家具ができるなんてなんて素敵なんだろう。時間が経過すればするほど、ふかみが増し美しく輝く。古材は、未来にどんな形で生きていくのかは分からないが、今現在確実に家の柱や家具として呼吸している。長い歴史が染みこんでいる古材は、新しく生まれ変わって存在するだけで、現代に生きる私たちに語りかけている。長い年月を見てきた古材はそこに生きてきた人々の息づかいを受け止めてきた。
良い物は、捨ててしまうのではなく、使えるものはいたわって残していかなくては日本の文化が消えてしまうような気がする。職人の技も刻み込まれている古材。
大切に大切に残していかなければ。日本の美の歴史として。
朝の目覚めにコーヒーを一杯、気持ちのゆったりした午後の一時に一杯、仕事を終えた時の一杯。人それぞれコーヒータイムがありますよね。私は、午後のひとときにコーヒーを飲むのが一日の中で至福のときかもしれないな。何も考えず、ちょっと大きめのマグカップに並々とコーヒーを注ぎ、ボーっと空を仰ぐのが好きだ。特に上手に入れられた時は、気分がよく空を仰ぐ時間は長引く。若いころは、名喫茶めぐりとか言ってコーヒーを飲んだものだが、あの頃は本当にコーヒーの味がわかっていたのかしら。60過ぎて、ようやく少し美味しいコーヒーを入れられるようになり、美味しいコーヒーの良し悪しが少しわかってきたような。でもまだまだひよこ。ニワトリになるまでには相当の時間が。コーヒーもお茶と同じで気が急いては決して美味しいコーヒーはできない。気持ちを静かに落ち着かせ、じっくり入れるのがコツかもしれない。我が家では、主人がマイポットを持っており、それでコーヒーを入れてくれる。それがとても美味しい。今は雑用に追われる毎日だが、少しでも多くの至福の時を増やし、心や体をリフレッシュさせたい。さ~てとコーヒーでも入れますか・・・。
今までお椀というものを意識して使ったことがなかったです。和食を食べに出かけても食べることが先でじっくり器を鑑賞することなどなかったし。今回の美の壺を見て、お椀の美しさにあらためて驚かされました。お椀の歴史は古く、縄文時代からあったらしいのです。お椀というとお味噌汁を入れるもの、汁物を入れるものと決めて掛かってしまうわたしです。実は色々な用途に使われて食卓に花を添えているのです。煮物を入れてみたり、サラダを入れてみたり、アイスを入れて出すなんてお洒落ですよね。器をお椀に変えるだけでいつもの料理が違って見えますね。お椀本来の美しさは、高台と曲線のバランスにあるそうです。たしかにお椀という形は独特ですものね。お椀の蓋を開けると蓋の裏には蒔絵が。まさしく雅な蒔絵の世界が広がります。意識せずにお椀を使っていたせいか、おわんの蓋の内側の世界まで目がいっていなかったような気がします。ピタッとしまったおわんの蓋をゆっくり開けると湯気がパーっと広がります。其の内側には四季折々の世界が広がっているのです。春の桜、夏の海、秋の紅葉など。内側に描かれた蒔絵が映えるのは、水分を得た時だとか。湯気でお椀の蓋に水分がつくと、またこれがみずみずしい世界が現れてくるのです。湯気でついた水滴までもが計算されているお椀の内側の世界。意識しないわけにいきませんね。今回の番組を見てお椀の世界観のようなものを発見してたのしかったです。
8月後半から9月になっても太陽の光にお目にかかることが少ない。曇りか雨の日が続いている。夏の暑い日にスーッと風が吹いて時折風鈴の音色がどこからともなく聞こえてくるのは、心にも体にも清涼感を与えてくれる。どこの家だかわからない。この雨模様のさなか風鈴の音が聞こえてくる。其の音色は何とも寂しげで、私には不気味な音にさえ聞こえてしまう。ちりーん、ちりーん・・・時折思い出したように鳴り響く。曇の天気だとなおさら恐ろしく、どこか別の世界に導かれているような気がしてならない。南部風鈴の音は、深みがあって透明感のある音色に聞こえる。また、江戸風鈴の音色はカラッとして陽気な音色に聞こえる。私としては、後者の方が好きかもしれない。季節的には、まだ風鈴の音が聞こえていてもおかしくない季節なのだが、今年はもう終わりでしょう。季節だけでなく天候にもよるが、やはり吊るしていい時季はある。住宅環境を考えたりすると庭先に吊るす時季や時間は考えたほうが良いと思う。何だか愚痴っぽい言を書いてしまった。年取ったのかな…。昔と違い現代の風情は難しいな。
日曜美術館が久しぶりに面白かった。「あやし、おどろし、妖怪絵巻」。今までの日曜美術館とは少し趣が違い芸術性を追求するというより、面白さを追求して妖怪絵巻を紐解いていた。室町時代に描かれた真珠庵に残る「百鬼夜行」絵巻を、俳優の平泉成の語りでたどっていくのだが、実に楽しく愉快に見ていくことができた。百鬼夜行絵巻に出てくる妖怪たちは、付喪神でいろいろな道具たちが主役なのだ。平泉成の語りがたまらなく楽しくて、いつもの日曜美術館なら正座して見るところだが、今日は、ゲラゲラクスクスの連続で本当に楽しめた。こやってみると百鬼夜行の妖怪たちは、付喪神が主役で、江戸から明治にかけて想像力を掻き立てられるような楽しい作品があるのだと感動した。平安時代の百鬼夜行と言えば、恐ろしいものとして扱われてきたが、時代とともに日本人の生活の中に妖怪たちが入り込んできて、その時代の人々に楽しさや笑いを与えるものに変わってきたのだと感じた。現代の妖怪マンガなどもそれに近いものがあるのではないだろうか。我が家にも25年近く可愛がられているぬいぐるみや毛布があるが、もう付喪神だなぁ。
7月7日
ムシムシと不快な毎日が続いていますが、こんな時炭酸飲料を飲んでスカッとするのもひとつの手ですね。これは、私だけのムシムシ対策法ではありますが・・・。梅雨の時期はどうしても気分が滅入ってしまいます。こんな時、遠方から友人の作ったジャガイモが送られてきました。もう感激ですよ。中を開くと宝石のようにキラキラと輝いたジャガイモたちが嬉しそうにこちらを向いています。彼女が育てたというだけで、愛おしいです。これだけの宝石をどう料理しようかと毎日考えるのが結構楽しいのです。丹精込めて作り上げられたジャガイモは、大切に食べたいのです。ポテトサラダ、カレー、コロッケ、肉じゃが・・・。先月はさつまいものお話を書きました。二ヶ月続けてお芋づくし。(笑)何が嬉しいって、滅多に会うことが出来ない友達が、ふとしたことから繋がりまた思い出や近況で盛り上がる事ができることが凄く嬉しいのです。元気なんだな、頑張っているんだな。何でもない事のようですが、還暦過ぎてくると日常の中に入り込んでくるサプライズは凄く大切です。ジャガイモをどんな気持ちで育てていたんだろうとか、収穫の楽しみは格別なんだろうなとか。ジャガイモをさすりながら彼女を思い出しています。今年の梅雨は、ジャガイモさまのお陰で何だか鬱々していたこころが晴れ晴れしました。友のあたたかい優しさが心に響く今日このごろです。
6月3日
もうすぐ夏になるというのに、我が家では熱いブームが到来です。その熱いものと言えば、「焼き芋」です。偶然スーパーで見つけてその 香りに引きづられ、1本が2本、2本が3本。毎週のように買っているのです。
その焼き芋の名は、「紅天使」と呼ばれるお芋の種類です。名前からして、夢のある名前でしょ。ほっかほっかの熱々の紅天使ちゃんを手に入れるために出来上がり15分前に並び買って帰ります。お味はもう天に昇るような美味しさなのですよ。甘く、ねっとり、口の中でとろけもう最高です。芋ではなくお菓子です。天使たちがお芋の周り降りてきたようなそんな表現がぴったりです。フウフウ言いながらパクパク食べるのですが、とろっとした芋の中から甘~い蜜がベッタリとにじみ出てくるのです。それをぱくりと口に入れた瞬間!あ~幸せと感じてしまう私はおめでたい。(笑)大げさかと思われるかもしれませんが、みなさんも1本ご賞味してみたらいかがですか?もう虜ですよ。今月は、焼き芋談義でした。
五月五日は、こどもの日で端午の節句です。ちょっと早いのですが柏餅を買ってきました。つぶあん入りとみそあん入りです。私はどちらかと言えばといえば、味噌あん入りの柏餅が好きです。
お茶を入れ、柏の葉で包まれた柏餅を一口かじると、口の中に柏の葉の香りがふわ~と広がりました。この柏餅を食べながら、新緑で彩られた外の景色を眺めているとつくづく幸せだなぁ~と感じるのです。幸せってなんだろう。突然青臭いことを考えながらお茶を飲んでいると、幸せってなんでもないことを幸せって感じられることが幸せなんだという結論に自分の中で納得しました。青い空、子どもたちの遊ぶ声、車の音、普段意識していないことが、一服のお茶と柏餅で感じることが出来たなんて、最高ですね。(笑)
おもいっきり柏餅を頬張りながら、青い空を見上げてみました。
昨日、満開の桜のアーチを歩いてきた。花曇りではあったが、気品漂う桜道だった。歩いているとたまに桜の花が落ちている。小鳥が蜜を吸うためにくちばしで花を取ってしまうらしい。花びらが舞い散る姿は風情があるが、花そのものが落ちる姿は哀れだ。
先日テレビを見ていたら、花見を逃しても一年中桜に出会える美術館のことを知った。「郷さくら美術館東京」だ。一流の画家たちの描く桜の作品が飾ってあるとか。作品を鑑賞しながら空想のお花見をするのも素敵かなと。桜の花を描くのは、富士山と同じくらいエネルギーが必要な気がする。桜、富士山は不動の題材で、そのものに感動することが大きすぎて打ちのめされそうだ。桜は人々の目や心を楽しませてくれる。桜は毎年何事もなかったかのように咲き誇る。人が悲しかろうが、嬉しかろうが毎年毎年美しく咲いて散って行くのだ。
桜の花びらは、風に遊ばれてコロコロ地面におちる。落ちてもコロコロと遊びまわる。それでも気品をうしなわない。もも色に敷き詰められた花びらの絨毯を静かに踏みつける時、桜にすまないと思う・・・。
「グレーテルのかまど」では桃の節句にちなんで、島根県松江に伝わる代表的な雛菓子「花もち」の特集をしてました。ほんのり春色の花もちは、上品で見ていても優しい気持ちになれるようなお菓子でした。
花もちは、型のなかにあんこの入ったお餅を入れて型をぬくと、それが亀だったり、桃だったり、エビだったりといろいろおめでたい形が出てきます。それを椿の葉の上に乗せて蒸していただくのです。また、京都の雛菓子と言えばひちぎり、長崎は桃カステラ、岐阜からすみ。その土地々々によって、桃の節句にちなんだお菓子があるのですね。
さて、我が家のお雛様と言えば、ここ数年箱の中から出てません。かわいそうに・・・。何年も出していないことが気になっているのでしょうか。この時季になるとお雛様の夢を見るのです。箱の中から「出して~、出して~」と騒いでいるのです。そのうち箱から飛び出してきて、私の枕元に・・・。恐ろしい夢です。お雛様たちも、年に一度しか出てくることがないのですもの箱から飛び出して飾って欲しいと思うのは当然ですよね。それはわかっているのですが、この狭い我が家に飾る場所を確保するのは至難の業なのですよ。ついついずぼらな性格が災いして何年もサボってしまいました。年に一度の女の子のお祭りなのだから飾ってあげるのは当たり前ですよね。今年は飾りますよ。お詫びに雛あられと甘酒菱餅もつけちゃいます。だ・か・ら夢に出てこないでくださいね。(笑)
グレーテルのかまどを見ていたら急に「あげみみパン」が食べたくなり、作ってみました。あげみみパンと言えば、私の小さい頃はどこの家でも定番のおやつだったような気がします。早速あげみみパンをつまみながら、取りためておいた映画をみることにしました。「運動靴と赤い金魚」という作品です。貧しい家庭に育った少年は妹の靴を修理から取ってきた帰りに、その靴を失くしてしまいます・・・そこから物語が始まっていくのです。貧しい環境に置かれているにも関わらず、子どもたちに暗さはなく、彼らなりにたくましく生きているのです。子供の目線で丁寧に描かれている作品は感動に値すると思います。ドラマのクライマックスでは思わずパンを食べる手をとめて、感情移入してしまいました。ラストに映し出される真っ赤な金魚がとても象徴的に描かれていました。見終わって何だかほっこりした気持ちになりました。残りのあげみみパンをかじると甘く素朴な味が口の中に広がりました。今日の映画にはこのあげ耳パンが似合っているかもしれませんね・・・。
1月26日
今日は、学生時代の恩師と友人たちとで楽しい時間を過ごしました。
後から後から話は尽きず、あっという間の時間でした。
学生時代の思い出話から始まり、話は止めどなく続きました。
学生時代の友人は、すぐ昔の共有した時間に戻ってわいわいがやがやできる楽しさがあります。
お互い元気で楽しい時間を一つでも多く持ちたいですね。
今、来年も宜しくという感謝をこめて、重箱を乾拭きしています。みなさんは、お正月おせちを召し上がりましたか。私は、毎年おせちを作ってはいるのですが、この歳になっても味が薄かったり濃かったりと、なかなか我が家の味が出せません。またおせち料理の配置、配色もむずかしく、美しく見せるためのおせち作りは至難の技です。見ても美しく、食べても美味しいおせちはいつになったら作れるのでしょう。もういい年齢なのに・・・。さて、おせちには色々意味が含まれているのですが、代表的なものとして数の子、黒豆、田作りをあげてみましょう。数の子は、子孫繁栄、黒豆は、健康に働く、田作りは、五穀豊穣です。おせち本来の意味は、新年に福の神さまをお迎えするためにお供えする料理だそうです。福をたくさんいただくために、たっぷりと隙間なく盛りつけるのだとか。おせちは江戸時代になって、一般に食べられるようになりました。生きることが困難だった時代だったので、おせちには人々の切なる思いが込められていたそうです。実りに対する神への感謝。それがおせちの原点ということでしょう。豊かな実りに感謝しつつ、おせちを楽しむ。それが、一年の幸せにつながるのでしょうね。やっと重箱をしまい終わりました。今年一年も健康で幸せでありますように・・・。