ARAKAN LADIESによる手づくり作品のお部屋

 Arakan Art 2013

Arakan Lady の雑記帳

12月13日

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商店建築

この頃は見かけなくなりましたが、正面は洋風で裏側が和風建築という商店の建物がありましたね。「美の壺」の特集は商店建築でした。全体が洋風建築なのかしらと思って裏に回ると普通の日本家屋なのです。商店の表を飾り立てるというのはなんだか見栄をはっているのかしらと思わず考えますが、商店建築というのは関東大震災以後、下町の商店街でいっきに作られたそうです。建築の知識などない絵描きにデザインを頼んだりしたそうです。絵描きたちは、自由な発想でデザインしたそうです。ギリシャ神殿風とか、斬新なデザインとかみたことがあります。表だけということで絵描きや職人さんたちは勝手気ままにやらせてもらったのでしょうね。私がよく見た看板建築と言えば、銅板を使ったものが記憶に残っています。銅板は、耐久性があり緑青が表面を覆うと劣化を防いでくれるそうです。緑青をふいた建物はなかなかノスタルジーを感じます。この時代の職人や、デザイナーたちは思う存分キャンバスに見立てて飾り立てたんでしょうね。下町全体があらゆる商店建築、つまり看板建築で覆われていたのですから壮観だったのではないでしょうか。近年建てなおされてその看板建築が少なくなってしまったことが寂しい気もしますね。その技術たるや凄いものだったのでしょう。今その頃の技術を継承している職人さんはどれくらいいるのでしょう。そのまま正面を切り取ってキャンバスのように残すことはできなかったのかしら・・・。今年最後のアラカンアートでした。それでは、皆様良いお年を!

11月15日

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千歳飴

11月15日は七五三でした。七五三につきものは、「千歳飴」です。千歳飴は、かなり舐めごたえがある飴ですよね。11月にお菓子屋さんに千歳飴が並ぶと、七五三の季節だなと感じます。千歳飴は、子供の健康を祈るお菓子とされていて、飴の長さは長寿を意味するのだそうです。昔は、子供にとって飴は栄養源だったのです。今の子どもたちは幸せですね。あらゆる種類のおかしにかこまれているのですから。私事で申し訳ないのですが、わたしは千歳飴を一本舐めきったという思い出がありません。自分の七五三のときも、お祝いに頂いた千歳飴も途中で飽きてしまうのです。舐めているとさきが尖ってそれをポキっとかじり、また舐め始めるのですがそれで終わってしまうのです。素朴な味に舌がついていかないのかもしれませんね。なんて贅沢な舌なんでしょう。困ったものです。(笑)
子供の成長を願う飴を大切にしなくてはバチが当たりますよね。七五三にまつわる絵画は江戸時代の錦絵に残っておりその絵の中にも千歳飴が描かれているのです。飴と子供の深い関係が民話にも残されています。中でも飴地藏というお地蔵さまの話がとても印象的で、飴をお地蔵様の口に与えて子育ての悩みをお願いしたりするそうです。お乳が出なかった母親がお乳が出たり、子供が元気に育ったりと、飴地藏が子育てに与えた力は凄いものだそうです。地方によっていろいろなはなしがあります。これらのことを考えても、飴がいかに子供にたいせつなものであったかがわかります。

10月13日

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「美の壺」は、棚の特集だった。部屋の隅に必ず置かれているのが棚だ。我が家にも棚が静かにおかれているが、結局ものを置く場所として使われてしまっているのが悲しい。本来ならばものを飾りつつしまう棚でなくてはならないのに・・・。全くもって情けない話だ。本棚のなかには、お気に入りの本が何冊も読まずにホコリにまみれている。どうしてこうだらしがないのだろう。しかしなぜかその本棚がインテリアとして部屋の中心を占めているのがなんともおかしい。本来の飾りつつしまう棚の役割を無視しているようで、棚に対して申し訳ないな。実家に私が幼い頃から置いてある桜の木で作られた棚がある。祖母はその棚を一日も休まず乾拭きしていたのを思い出した。磨けば磨くほどその棚は美しく輝きをます。今は、其の棚は母に受けつがれて毎日磨かれている。材質の美しさと、棚に上手く飾られた茶碗がみごとに-から+に変わっていく棚の姿が美しい。私の棚にはなにが飾られているのかといえば、ガラクタどもが占領してとても美しい棚ににはなっていない。-から+にしていくのはほどほどの塩梅が必要。ただ並べ立ててかえって汚くなってしまうのが落ちだ。棚のなかに美を見出すのはなかなかのものだ。温泉のおみやげやゲームセンターの人形を並べ立てているようじゃ落第だ、ね。

9月17日

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レオナール・フジタ

フジタがたくさんの子供たちの絵を残していることは、皆さんご存知のことだと思う。額が広く、無表情の子どもたち。子供の顔を見る限りは、可愛くない。私の感じたフジタの子どもたちの感想は、冷たくて、世の中を斜めから見ているような危なげな子どもたちという印象。表情に子供のあどけなさを全く感じないのだ。しかし、フジタはこの子どもたちを存在はしていないが、私一人だけの子供だ。わたしには子供がいない。私の画の中の子どもたちは、息子なり娘なりで一番愛したいこどもだと言っている。15センチ×15センチの画面には、パリの華やかででない仕事の人たちの生活が描かれている。その仕事をしているのは子供たちで、一枚一枚見ていると実に楽しい。顔は憎たらしいのに仕草が実に可愛い。何だか矛盾しているが、よーく見ていると憎たらしいんだけれど愛着がわいてくる。不思議だ。フジタにとって子供を描くことは、フランス移住後の主なテーマの一つだった。孤独を感じた時、彼の心の隙間を埋めてくれたのが画面の中で動きまわっている子どもたちだったのかもしれないなぁ。私からみれば、無表情な子供でも、フジタの頭の中では子どもたちは笑ったり泣いたり怒ったりして動きまわっていたのだろうと思う。おそらくこの子どもたちの絵を描いている時が、フジタにとって一番の癒やしの世界ではなかったか。そんな気がふとした。じーっと作品を見ていると今にも動いて暴れ出しそうな子どもたち。小さな子供たちが、束になってフジタの気持ちを代弁しているのかもしれない。それが、ものいわぬ冷たい表情に凝縮されているのかも・・・とふと思ったりした。

8月2日

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富士山

「夢の富士山 傑作10選 ~巨匠たちの知られざる物語~」日曜美術館で特集していた。ついこの間富士山は、世界文化遺産として登録された。古来より霊峰とされ信仰の対象としても知られている。富士山のフォルムは、曲線の美しさだと思う。この美しい富士山を描くにあたって多くの画家達が格闘してきた。私にとって山と言えば富士山だ。幼い頃から山を描く時は誰に習ったわけでも無いのに富士の山を描く。どんなに小さい子供でも山といえば富士山。しかし、この富士を描くとなると、これまたものすごいエネルギーが必要なのではないか。だれもが慣れ親しんでいる山だからこそ、描き応えがあると同時にかなり難しい。葛飾北斎、横山大観、奥村土牛、片岡球子、梅原龍三郎・・・ら天才画家達でさえ富士山に向かう時は、圧倒されながら画面に立ち向かったに違いない。私が富士山と対峙する時は、「お前のようなヒョっ子にはまだまだ」と言われてしまうだろうな。
ただ写すだけならできるだろう。しかしここからが戦いなのだ。感じなければ始まらないのである。敷居が高いよね、富士山は・・・。ただ今言えることは、日本人の誇り高き山だということ。この誇り高き山を画家たちの個性で征服して欲しい。私が富士山を描くのはいつのことやら・・・。しかし、挑戦をしてみたい気持ちはある。死ぬまでに一度は、格闘するぞ!!

7月21日

朝顔図屏風

江戸時代後期、琳派最後の画家であり琳派の異才と言われた鈴木其一の作品「朝顔図屏風」がアメリカのメトロポリタン美術館に名品として飾られている。金箔に描かれた「朝顔」は、みずみずしい花の色で画面の中で咲き誇っている。其一の最高傑作である。この青というよりナス紺に近いぽってりとした朝顔の色がなんとも印象に残る。岩絵の具の群青を丹念に塗り重ねたのではないだろうか。金箔の金と緑青のみどりと群青の青の三色でほとんど構成されている。朝顔の質感をたかめ、斬新な構図で画面を埋めている。これらの朝顔の表情は、今にも画面から落ちて来そうである。抽象的あり絵画的でもある、朝顔図屏風はエネルギーを含んで咲いている。朝顔は、昼近くにはしぼんでしまうこれがじつにはかなげ。しかし、地をはうように咲き誇っている其一の朝顔は、生命の強さを感じてしまう。上にのびるのではなく、地をはう朝顔。これこそが其一が描きたかった朝顔なのだろう。よく光琳の「燕子花屏風」と比較されるが、装飾性と空気感を比較してみたらおもしろいかもしれないな・・・。

7月3日

ファッション

私も60代が間近に迫っていろいろ考えることがある。肌が衰えて化粧ののりが悪くなってくるのは仕方がない。若いころから手入れを怠っていたのだから、自業自得。しかし、何を着ても似合わない。街を歩くと高齢の方でも自分に似合うファッションに身を包んでいるかたもいる。その時は、素敵だなと素直に思う。しかし、自分はどうかというと目立たないようにと無彩色の方へ動いてしまう。余計に老けて見えてしまうのが悲しい。ぱっと華が咲くようなフアッションで身を包みたいといつも思っているのだが、勇気がなくなってきた。人の目ばかり気にするようになってきた。群衆のなかに紛れていくのが当たり前になってきた自分が凄く嫌だ。自分らしくいきいきできるファツションで闊歩してみたい。いつからこんなに小心になったのか。フアッションぐらい冒険しろよといつももう一人の私が騒いでいる。(笑)ただ、ここを超えたらおかしいぞというギリギリの線が今の私にはわからない。顔映りが良い色彩を選ぶのか、個性的な形を選ぶのか、年代を超えて若い感覚を盗むのか、これまたむずかしい。好きな服を着れば良いのよといわれればその通り!試行錯誤して60代に向かっておしゃれを楽しもう。一線を超えないようにね。

6月2日

あめあめふれふれ

梅雨空は、憂鬱ではあるけれど雨に煙る景色は嫌いではない。雨が激しく降ると一日中鬱になるが、雨の音に耳を傾けたり、雨に濡れた木々を見るのは好きだ。木々のみどりが目に染みる。川合玉堂の作品で作品名は忘れてしまったが、雨を描いた作品があった*1。作品の前に立つと本当に雨音がきこえてくるのだ。私には、激しい雨音に感じた。作品から音を感じたのは玉堂の作品が初めてだ。画面の中に自分が入り込んでいるような感覚だった。話は変わるが、また幼い頃の思い出話をさせて貰いたい。♪あめあめふれふれ母さんが蛇の目でお迎え嬉しいなピチピチチャプチャプらんらんらん♪こんな童謡があった。この童謡の詩のように私も雨の日母が迎えに来てくれるのが嬉しかった。小学校の校門の前で母が傘を持って待っていてくれる。何だか嬉しくて気持ちで弾んだような気がする。それこそピチピチチャプチャプらんらんらん♪である。(笑)紫陽花は、雨に濡れると輝きがます。静かに堂々と咲き誇っている。花菖蒲は、雨に濡れると艶っぽい。雨に煙る一面の田んぼ、山々。適度の雨は、私たちの生活に潤いをもたらしてくれるが、大雨になると自然の力に打ちのめされる。何事もほどほどということか・・・。梅雨を意識して過ごすのは、鬱陶しい気持ちを楽にしてくれるような気がする。何事もいい方に考えたほうが幸せだという結論かな。
*1:気になって調べたところ彩雨 (1940年)でした。

5月29日

モディリアーニ

モディリアーニの映画を昔見たことがあるが、強烈に心に残っている。おそらく彼の生き様をかなり正確に表現した映画だったと思う。ラストが、かなり強烈な終わり方だった。ふと思い出し画集を広げてみた。学生の頃から、暇だと画集を見るのが常だった。私なりに画集を見て思ったのだが、モディリアーニの作品には、目玉が描かれている作品と描かれていない作品がある。目が描かれている作品は、フォルムは面白いのだが、当たり前すぎる。目玉のない作品は、目玉を描きたくなるようなワクワク感がある。と同時に言い知れない神秘性を感じる。このモデルは、睨んでいるのか、それとも優しいまなざしなのか・・・。見る側に想像させる。目を描かないと、気だるさを見る人に印象づける。計算されたフォルムと色彩なのだろう。モディリアーニについては、テレビでも度々放送されているが、生き様を知るには、映画をみると、もっと興味が湧いてくると思う。是非、ご覧になったらいいと思う。酒と麻薬に溺れ、最後は病魔に蝕まれて息絶えたモディリアーニ。彼を追って命をたった妻。あまりにも激しく短い人生だった。生き様は激しかったが、作品は静謐。そこに、惹かれるのかもしれない。

5月4日

東京散策

今日は、みどりの日。体の調子もいつもよりは良かったので、湯島天神でお参りをしてから旧岩崎邸を見て、横山大観記念館の大観先生の画室に入り、弥生美術館・竹久夢二美術館に寄ってきました。こんなに回って大丈夫!?とご心配してくださる方もいらっしゃると思いますが、リハビリを兼ねて行ってきました。最後の締めは、「金魚坂」です。よく歩いたなと思うほど歩きました。でも、自分のペースで歩いたのでなんとか大丈夫。大観先生の画室に入ったときは、ちょっと緊張しました。竹久夢二美術館では、夢二の絵葉書を買って来ました。金魚坂ではいろいろな金魚を堪能し、金魚の喫茶でお茶してきました。自分で自分を褒めました。一生懸命歩いた自分に。

5月2日

藤娘

このままではいけない。自分に気合を入れ、この連休娘に亀戸天神に連れて行ってもらった。ずーっと家にいたせいか、久しぶりの外出は何だか浦島たろ子になったようだった。いつの間にか春爛漫。風にのって花の香、木々の香り。健康が最高だなとひとりぶつぶついいながら、藤の花を鑑賞。藤の花の下の池では、気持ち良さそうに亀や鯉が泳いでた。周りは華やいで露天のお店がのきを並べていた。幸せだなとつくづく感じる・・・。天神様にもお参りしていろいろお願いしてきた。藤の花と言えば、藤娘が思い浮かぶ。藤を絵にするのはなかなか難しいかも。日本人形が藤の花をもってポーズをとっているお人形が我が家にあった。母が、お雛さまの時期になると、ガラスケースに入った日本人形をだしてくれる。わたしは、このお人形が怖くて仕方なかった。目が本物の目に見えた。あまりに怖いのでだれもいないときにお人形様が、手に持っていた藤の花の枝を手から取ってしまった記憶が蘇り、何だかおかししくて苦笑してしまった。私が三歳ぐらいの時のことである。亀戸天神に娘と来たことは良い思い出になった。

4月20日

病の床で

折角HPを作ったのに、先月からきーぼーは床に伏しています。今現在も調子はよくないのですが、自分を奮い立たせています。無理せずゆっくり治すつもりですが一番苦しかったときに、ちょうど東日本大震災の追悼番組がラジオから流れていました。千住真理子さんが「浜辺の歌」と「ふるさと」を弾いてくださいました。こんなに胸に染み入るふるさとを聞いたのは初めてでした。思わず布団の中で声をころして泣きました。なぜかわからないけど泣けてきたのです。自分の体も辛かったのですが、千住さんのバイオリンの音色が私の切れそうだったこころをつなぎ止めてくれたような気がしました。
♪うさぎおーいしかのやま~♪私のふるさと福島・・・。人を感動させる音色ってその人が生きてきた生き様がストレートに出るのだなとこのとき思いました。だって、バイオリンも泣いてましたもの・・・

2月20日

番組公式HP

パチッ!

久しぶりに『美の壺』を見ました。がま口についての番組でした。そういえば、このごろお財布にがま口を持っている人は少ないですよね。私の小さい頃は、必ず祖母も母もお財布と言えば、がま口でした。「パチッ!」と財布を締めるときの音はなんかいいです。お金があろうがなかろうが「今日は、お金を使うのはこれでお終い」と言われているような気がします。母にねだって駄菓子屋でお菓子を買ってもらう時、必ずももいろのがま口から10円を出してくれました。がま口は、お札より小銭が似合います。でも祖母も母も綺麗にお札をたたんで、小銭と一緒にいれていましたっけ。小銭が溜まってくると、とても重そうでがま口も苦しそうでした。でも、仕事はちゃんとこなしてくれるのです。買い物が終わると「パチッ」と、元気のいい音を鳴らしてくれるのです。そんなとき、今日もありがとうって言いたくなってしまいます。ところで、現在は、カードが増えるし、お札も出しにくいとあって洒落たお財布が増えていますね。ニーズに合わせた使い方をするのが一番だと思いますが、せめて私としては、小銭はがま口に入れてと言いたいです。だって、あんなに可愛いい形だし、自販機で何かを買う時とても便利だと思いますよ。ひとつがま口の思い出話を。私が小学生の時、初めてお誕生日のプレゼントにいただいたのがま口でした。ビーズで編んだとても素敵ながま口で、それに20円入れて、駄菓子屋で「きいちのぬり絵」を買いに行くのが何よりの楽しみでした。お金を払う時の緊張感が、あのがま口の「パチッ」で増幅されたのが今思うと微笑ましいです。

2月6日

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カカオの輝き

2月14日は、バレンタインデー。其の頃になると毎年女性は、チョコレート売り場に殺到します。私の若かりし頃は、そもそもバレンタインデーという華やかなイベントはあったのだろうか。私自身チョコレートを買った覚えも無いし、差し上げたという記憶もないのです。あららぁ~。
今や「ボンボンショコラ」と言われる一口サイズのチョコレートが素晴らしい宝石となってデパートのお菓子売り場に並んでいます。「美の壺」では、チョコレートの特集でした。どのボンボンショコラも美しく小さな彫刻でした。色の美、形の斬新さ、勿論お味も最高なんでしょうね。ショコラティエの手にかかると、キラキラ輝く宝石。お菓子というより芸術作品です。この可愛くて美しいお菓子を一口でパクリと食べられてしまうのかと思うと許せませんね。(笑)私も先日デパ地下で、ショコラの美しさに圧倒されてきました。ショーウインドウのなかに並べられたショコラ達は、まるでモデルさんのようです。チョコのフアッションショーと言ったところでしょうか。一粒一粒に個性があり、手のひらで転がしてみたくなりました。でも、大変。そんなことしたら手の熱で美しいショコラは、食べられる前に溶けてしまいますね。やはり、頂いた方のことを思いつつ、一粒口に入れ舌の上でころがし味わうものでしょう。もしかして、ボンボンショコラってチョコの総合芸術かしら・・・。見て、触って、味わって、年に一度ぐらい究極の甘さに陶酔するのもいいかもしれませんね。我が家の男性は、板チョコで十分な気がします。だって質より量なんですから!この甘い宝石をどこまで堪能してくれるかしら。

1月29日

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白の美

「白の美」題名を見るとなんだと思うかもしれませんね。先日友人ととある駅で見かけた女性が白いコートで身を包んでいた姿が本当に美しかったのです。髪の毛も銀髪と言うより真っ白の髪でゆる~いパーマがかかっていました。私と友人はその女性に釘付けになりました。駅のホームの中でひときわ目立っていました。背筋がピンと伸び優雅な品のある佇まいで、お歳は60歳後半ぐらいでしょうか・・・。今まで白い服を着ている人は何人もみたことがありますが、あそこまで美しく着こなしお似合いの方はいません。ちょっとショックでした。そこで、思ったのですが、白は、結婚式の白無垢、ウエディングドレスというイメージが強いのですが、人生酸いも甘いも噛み分けた年齢の女性がさり気なく着こなしていると、なんともいえない色香を感じてしまいます。私も、白の似合う素敵な女性になれるのかしら。(笑)白色って絵の具の原色に混ぜるとパステルカラーに変身しますよね。白い布は、どんな色にもそまりますよね。結婚という新しいスタートに白い衣装を身にまとう、人生どんな色にに染めていくのでしょうか。しかし、人生いろいろな色に染めながら生きてきて、やっとリセットできる人生に差し掛かったとき時、純白の服でお祝いするのもいいかもしれませんよ。「白い服をまとった女」まるで映画の題名ですね。
さて白と言えば雪、雪と言えばアイスクリーム、無理やり繋げてしまいました。「グレーテルのかまど」で、宮沢賢治の『永訣の朝』に出てくる天上のアイスクリームから、スィーツとしてアイスクリームが取り上げられていました。病に伏す妹のためにアイスクリームを食べさせ、献身的に看病した賢治のことが語られていました。賢治は、詩の中で妹が最後の日を迎えるとき、賢治に向かって「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」と。みぞれ混じりの雪を取り、この雪が天上のアイスクリームになってくれと願ったのです。白くて甘くて冷たいアイスクリームとみぞれ混じりの雪の白さがなんとも悲しさをそそります。

1月22日

金花糖:金沢市観光協会提供

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金沢市観光協会

お菓子

今日は、大好きなお菓子について。先日「美の壺」を見ていたら金沢の和菓子や金花糖、落雁について特集してました。私は、食べることが大好きな人なので画面に集中!ご飯を食べたばかりなのにもうテレビに映し出されるお菓子に夢中です。(笑)
加賀百万石というだけあって品の良いお菓子が並んでいました。その中でも私が興味を持ったのは、金花糖という金沢の伝統的なお菓子です。真っ白な魚の形をした砂糖菓子に赤、緑、黄、青の彩色をして作るのです。素朴なのですが、実にその白いお菓子に色が映えるのです。現代人の口にはきっと新鮮な味に思えるのでは。しかし、食べてしまうのが惜しいほど美しいお菓子でしたね。あとコーヒに和菓子ってのもありです。なかなかオシャレですよ!
紅茶と言えばイギリス。アフタヌーンティーは有名ですね。スコーンやケーキ、サンドイッチをつまみながらまったりとした時間を過ごすのは、至福の時ですよね。気の合う友人と一緒にお茶しながらとりとめのない話をするってのも生活の中に必要ですよ。それって、何気ない幸せだけど、この平凡な時間こそ最高の贅沢だと思います。今日も1日幸せだった、熱いお茶をすすりながら感じてみませんか。

1月16日

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音楽を聴きながら

東京都現代美術館で「アートと音楽」と題して作品展が開かれています。私は、どうも現代美術は苦手であります。物事を論理的に考えたり、哲学的に考えるのは、昔から苦手でした。よく友達から、「きーぼーの作品って原始的で感覚的だね。」と評されました。褒め言葉といえるのかわかりませんが、考えてないで感性だけで作品を作ってしまうようなところがあります。感性も鋭いならいいのですがかなり鈍い・・・。(笑)
話を日曜美術館のほうに戻しましょう。坂本龍一と日比野克彦の対談で始まり、ふたりで作品を鑑賞してお互い思いを語っていました。流石日本を代表する芸術家だけあってなかなか面白い見方をしてましたね。アートでも音楽でも収まらない作品、アートの根源を探る試みとか。最初にまわっていた部屋では、小さな人工の池の中で真っ白の様々のお皿が、揺らめきの中でぶつかり合って音を出しています。どこかで聞いたことがあるような懐かしさを感じながらも不思議な世界観に吸い込まれそうです。実際あの場所行ったらより強く感じられるのでしょうね。しかし、植物が発している物質の変化を音に置き換えていくというとなかなかハードルは高いですね。これはきーぼーでは理解不能です。美術館に足を運んでじっくり鑑賞すればきっと少しづつ理解可能になるのでしょう。アートの概念を壊すことが未来の新しいアートに繋がるということなのでしょうか。カンデンスキーもパウル・クレーも音楽を聞きながらイメージを色彩や線に置き換えていったのです。私も作品を制作する時音楽を流しながら制作すると感情のコントロールがうまくいきます。こんなことでもアートと音楽の融合と言えるのかもしれませんね。新しいことをする時は、なかなか理解されるまでに時間はかかりますが、こうやって歴史上に新しい動きが記されてきているわけですから、見過ごすわけにはいかないですよね。

1月11日

インターネットミュージアム
※公式サイト閉鎖

2013年初めての美術館!

今日は、去年からいきたいと思っていた東京国立近代美術館に行ってきました。「美術にぶるっ!」を見てきました。日本の近代美術のベストセレクションです。もう感動ですね。美術全集でしか見たことない作品が目の前でみることができるのですからすごい迫力ですよ。歴史に残る作品は、スキがないですよね。絵の前に立つとものすごいオーラをビンビン感じてしまいます。思わず美術館にいることを忘れ磁石のように吸い付いて行く感じですね。中でも岸田劉生の作品の前で、思わず見入ってしまいました。誰でも知っている「道路と土手と塀」です。抜けるようなスカイブルーの空。両端の土手と塀、絶妙なバランスの作品なのですよ・・・。今まで岸田のこの作品を意識してみたことはなかったのですが、素晴らしい作品だとおもいます。どの作品もとにかく素晴らしいの一言。
ただ、このごろ私自身が日頃感じているのですが、凄い作品というのは、見せ場が必ずあるということなのです。ドラマだって、映画だって、小説だって、音楽だって必ず見せ場クライマックスがあるじゃないですか。絵や、彫刻にもあるんだと思っています。画面に同じエネルギーで仕事をした作品は見てて苦しいし何も感じないことが多い。でも見せ場のある作品は、自然と引きこまれていくのですよ。この歳になってやっとわかってきました。この歳になったからわかってきたのかもしれませんね。(笑)
日本画に関して言えば、装飾的作品の中に風、音、空気を感じられたらそれは本物だなという自分なりの見方で作品を見ていくとかなり楽しめます。洋画に関して言えば、作者の人生が見えたとき本物だと思います。松本竣介の作品を見た時それを感じました。絵の見方というのは、人それぞれですが自分の見方を発見すると美術館に行くのが、また楽しくなりますね。わたし的には、楽しい時間でした。